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mutedtempest:

A human hand, cut in half.

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swamped:

Kira O’Reilly and Manuel VasonCollaboration #1, Post-Succour; London, 2001

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Kira O’Reilly and Manuel Vason
Collaboration #1, Post-Succour; London, 2001

少し前から、自分の脳について考える機会がすごく増えた。

わたしは脳浮腫という病気に罹ったので、脳が一時的に壊れた。
どういう状態になったのかは前にも書いたけれど、失明、記憶喪失、精神崩壊が主な症状。なぜかというと「後頭葉」が腫れていたから。後頭葉は視野を司る部分らしい。だから視覚にダイレクトに影響が出た。
そのまま脳が腫れ続けるといずれ脳幹を圧迫して、死を免れられない、ということらしい。
なので、わたしはものすごく注意して経過を観察されていた。
意識はあるんだかないんだかわからない状態だった。

そして精神崩壊した状態で目を覚ましたわたしは、目が見えなくなっていた。声は聞こえていた。
思い出す限り、「失明」はしていた。確実に、目が見えなくなっていた。なにしろ自分にされていることを認識できなかった。男の声がしたら「三本」、女の声がしたら「青原さん」と答えていた。意味はわからないままそうしていた。

ただ、そのとき、本当に視覚が奪われていたのか、ということに関しては、わからない、と言うしかない。見えてはいなかったけれど、自分が見えないということは認識していなかった。脳が見せた誤作動そのものなのかもしれない。わたしの様子を見に来る人々の顔は見えなかった。手も見えなかった。何をされているかもわからなかった。でも、見えていないとは思っていなかった。
わたしは精神が壊れているなりに、何か重大な隠し事をしている自覚があった。きちんとした思考回路で言えばそれは失明状態であることを隠していたのだけれど、そのときの幼児なみの己の回路では、それを説明できなかった。自分に何か、生活の根幹を揺るがすとてつもない何かが起こっているが、それをうまく言葉にして相手に説明するのは死に等しいと感じていた。

意識がかなり正常に戻ってきて、周りを見渡すと、世界にはあまりにも色がなかった。そういえば自分は共感覚というやつがあったな、かつては。と思った。
わたしの場合、具体的には、文字、単語、文章に色のような模様のようなイメージが付与される。
3年ほど前までそれはわたし以外のすべての人にあるイメージだと思っていて、人から指摘されてそれがちょっと変であることを知った。色聴のことも調べた。その数年後、病気になってから、自分が自閉傾向にあることも知った。知能指数が高めのおかげで、比較的普通の生活をしていたのだということも知った。
知能指数が平均値より高いというのは前から知っていたけれど、わたしは勉強が大嫌いだし、得意なことと不得意なことの差が激しい。知能指数が高い=すぐれている というわけではないことを、身を以て知っているので、それについては何の感動もなかった。

視覚がやや戻り始めた頃、脳が誤作動を始めた。
四角いものの区別がつかない。手に持ったiPhoneの小さな小さな四角い充電器を、四角いiPhoneと認識してしまう。病室のトイレに入って、看護師を呼ぶ四角いボタンと、便座を拭く消毒液が入った四角いボトルの区別がつかない。世の中には四角いものがものすごくたくさんある。どれも形や大きさが全然違う一方で、全部同じもののようにも見える。感じる。今思えば、わたしの脳はもともと物事の結びつきがとても苦手なのだ。それが共感覚として現れていたところに脳が故障したため、誤作動の領域が大規模になってしまったのだ。
ドアも窓も区別できない、ベッドの枠とナースコールも区別できない、そんなレベルにまで拡大した「共感覚」は、そのうち別のものまで誤作動を起こした。
においについてだった。
見舞いに来る人の中に、淀んだ水のような緑色のにおいの人がいた。わたしはこの人のことがとても嫌いだったのだけど、この人がいつも焚いているお香のようなにおいもとても嫌だった。においが視覚と結びつくというのは恐怖だ。
そのときの感覚といえば、周りの景色が淀んだ水の緑色に染まってしまうような、そういう感覚だからだ。

病院の消毒のにおいは銀色だった。わたしは大本が糖尿病で、そこからたくさんの病気を併発していたので内分泌内科に入院していたのだけれど、重度の(入院するレベルの)糖尿病患者はにおいがある。あまったるいような、腐る寸前の果物のようなにおいだ。そのにおいは少し黒が混ざってしまったような黄色だった。そういえば、体臭で病気を発見する犬というのがいるそうだが、わたしもそういう感じに一時的になっていたのかもしれない。同じ病棟の人たちの病状はそれほど詳しくは知らないけれども、近くにいくとそういうにおいが、色が、漂っていた。
この嗅覚に関する誤作動は二日か三日続いた。毎日お風呂に入ってできるだけ体臭を消しているであろう人のにおいまで感知するのでものすごく苦痛だった。その頃毎日病状を説明していたきつねこには、「においに共感覚がある」と話したことを覚えている。
文字については依然として何もなかった。というより、文字を「文字」として読むということがとてもつらかった。入院前のわたしは文字を画像として、模様として読むというより「見ていた」からだ。
意味はわかる。文章の巧拙もわかる。ただ、文字を頭の中で音読して読むということはない。というより、出来ない。してこなかった。だから、目の前にある文章を、文字を追って読む、ということがとても苦痛だった。
文字を追っていると時々ぐちゃぐちゃとした画像が目に入る。記憶が抜け落ちているので、読めない文字があるのだ。文字ということは認識できても読めない、どういう言葉なのか想起することもできない。わたしはもともと漢字に強いほうだったので、ひらがなやカタカナと思われる文字すら読めなくなっていることにはかなり危機感を覚えた。

その頃、寝て起きたら何かが飛躍的に出来るようになる、ということがよくあった。時間の経過とともにめまぐるしく回復していたのだと思う。
共感覚、についても同様だった。
寝て起きたら、昨晩まで読めなかったぐちゃぐちゃした画像に色がついていた。
入院時は寝たきりだったのでおむつをしていたのだけど、そのおむつのパッケージに書かれた文字列が、青と黄色のおだやかで機械的な模様に見えた。もちろん書かれた文字が本当は黒い文字なのも認識できる。意味もわかる。文字を追わなくてもぱっと見て、それが何を示しているかがわかる。
そしていつからかははっきりわからないが、同じような時期に、嗅覚に対する誤作動や、四角が区別できない誤作動もなくなっていた。
その頃、脳の腫れはおさまりつつあって、感覚の誤作動も元の範囲におさまったのだった。

現在は、脳が圧迫されたため、少しばかりだめになってしまった部分があるそうだ。具体的には数字が認識しづらい。文字情報として入ってこない。本当に一生懸命読んだつもりでも、間違うことがある。多分これは一生(あと何年生きるかわからないが)このままなのだと思う。

わたしの生活に文字は不可欠だ。なくてはならないものだ。わたしの生活の大半のよろこびは、文字に、文章に集約されている。
読書やネットをしていると、ときどきはっとするような美しい色や模様に出会うときがある。またそれらに出会うことが出来てよかったと思う。

この感覚の誤作動のせいで生理的に読めない文章や文字はたくさんあるけれども、あのとき、色のない文字列は悲しかった。
十分に順化した登山家がエベレストの山頂に立ったとき、肺の中の酸素分圧は約三六トルで、それはちょうど人間の生命にとっての限界である。地球上でいちばん高い場所が、人間が自力で生命を維持できる最高地点と同じ高度だというのは、驚くべき偶然だ。
フランセス・アシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』p.58 (via nozma-books)